三曲について三曲の楽理用語

三曲の楽理用語

ここでは、日本の音楽すべてに通ずる特色を理解するための前提として心得ておかなければならないものの一つとして、特にその楽理面の通則的な用語について述べておきます。
一般に、日本の音楽については、その理論体系ができていないなどともいわれています。
しかし、決してそのようなことはありません。
ただ、ヨーロッパの音楽と共通する概念や用語の面からは、未整理のような印象が持たれるだけのことです。
しかし、日本の音楽を説明するのに、洋楽の楽理をもってするのは、たとえば日本語を英語の言語理論で体系化しようとするのと同じように、もともと不可能なことなのです。


1. 五声と七声

日本には、もともと「音階」ということばはありませんでした。しかし、それと同じ概念はあって、中国の「五声」とか「七声」とかいう概念をそのまま用いました。すなわち、宮(きゅう)商(しょう)角(かく)変徴(へんち)徴(ち)羽(う)変宮(へんきゅう)といったことばが、ちょうど階名に当たります。洋楽のファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミに当たります。

中国では、この「七声」のすべての音が、基本となる音とされました。そこで、この七声のそれぞれの音にはじまる音列は、全部で七つあることになりますから、旋法の種類は、計七つあると考えられていました。

日本にも、この概念が入ってきて、中国から渡来した音楽はもちろん、日本固有の音楽も、この旋法の理論で説明することも行なわれました。そのやり方でいうと、三曲をはじめ、江戸時代に発達した日本の音階なり旋法なりは、その代表的なものを理論上は、変宮からはじまる音列として説明できないことはありません。

しかし、箏曲や三味線では、実際に現れる旋律としては、オクターブの中から五つの音を抜き出した音列、つまり「五声」になることが多いのです。それは、上行旋律では、ミ・ファ・ラ・シ・レ、下行旋律では、ミ・ド・シ・ラ・ファ、といったようになる傾向が強いものといえます。つまり、変宮・宮・角・変徴・徴(または羽)といった音列になります。これを最初の音を宮と置きかえれば、宮・変商・嬰角・徴・変羽(または嬰羽)といった音列と説明できます。あるいは、この嬰角をそのまま角として(詳述を省きますが、「律の五声」では、嬰角を角とします)、つまり宮商角徴羽の五声の音階が、実際の旋法として、下行に際して、商と羽が半音程度下がり、上行に際して羽が半音程度上がる傾向を持つもの、といったようにも説明できます。

この音階及び旋法は、いわば箏三味線音楽の「五声」なのですが、これを現在では「陰音階」または「陰旋法」などといっています。あるいは、「都節(みやこぶし)音階」などという人もあります。名称はともかく、こうした音階あるいは旋法が、箏や三味線の音楽において、その基本となっているものと考えてさしつかえありません。いちおう、ここでは、ミ・ファ・ラ・シ・レの音列を、陰音階の上行形、ミ・ド・シ・ラ・ファの音列を、陰音階の下行形と呼んでおきます。


2. 十二葎と調子

日本の音楽の音高は、いわゆる平均律には基づいていません。古くから、オクターブ内の絶対音高を表す音名としては、「十二律」というものが用いられました。ただし、この十二律のそれぞれの音律名は、中国と日本では異なります。というのは、日本では、中国のように時代が変わるたびに、音律の実音の規定をするということが行なわれず、実際の調の主音を、その調名でいうようなことなどから、逆に12の音名が生まれ、それを中国の十二律に当てはめるものとしたからです。

その日本の十二律名は、下記のような名称です。その洋楽音名を対照しておきますが、これは、だいたい相当するということです。

壱越(いちこつ) 洋楽の「ニ」
断金(たんぎん) 洋楽の「嬰ニ」(「変ホ」)
平調(ひょうぢょう) 洋楽の「ホ」
勝絶(しょうぜつ) 洋楽の「ヘ」
下無(しもむ) 洋楽の「嬰ヘ」(「変ト」)
双調(そうぢょう) 洋楽の「ト」
鳧鐘(ふしょう) 洋楽の「嬰ト」(「変イ」)
黄鐘(おうしき) 洋楽の「イ」
鸞鏡(らんけい) 洋楽の「嬰イ」(「変ロ」)
盤渉(ばんしき) 洋楽の「ロ」
神仙(しんせん) 洋楽の「ハ」
上無(かみむ) 洋楽の「嬰ハ」(「変ニ」)

この十二律の各音の実際の振動数となると、日本の音楽の中でも種目によって異なりますし、特に、実際の旋律に半音程として現れる場合は、箏曲・三味線曲の中でも、演奏者によって、かなりのちがいがあります。これは、音高が不安定であるというのではなくて、本来そうした性格のもので、なんでも機械的に平均値を定めてしまうといったものではないことを、よくよく認識しておいてください。

さらに、箏や三味線の調弦には、この十二律名にかえて、「何本」といった本数で表すことが行なわれます。壱越を6本として、以下順に、断金を7本、平調を8本というようにいい、鳧鐘が12本で、黄鐘から1本にもどり、鸞鏡が2本、盤渉を3本というようにいいます。

これは、本来は調律の基準とした律管にこうした番号のあったことに由来するものと思われますが、ただ、この番号は、時代・地域によって異同があります。はじめは、壱越の律管を1本といっていたので、今でも義太夫節の三味線では、壱越を1本といっています。

また、この本数でいう場合は、必ずしも主音弦の音高をいうのではありませんから、たとえば、「6本の調子」といっても、それはただちに調性を示すものではありません。あくまでも、調弦法のための音高の基準をいうもので、基準弦をその高さに調弦した全体の調弦をいうのです。

たとえば「6本の調子」といえば、地歌の三味線では、1・2・3の各弦を、ニ(※上に・)・ト(※上に・)・ニ(※上に:) に調弦したものをいいます。これが、義太夫節の三味線ですと、ト・ハ(※上に・)・ト(※上に・)に調弦されたものをいうことになります。あるいは、義太夫節では3の糸を基準弦とするようになったのに、地歌では2の糸を基準弦としていて、その際の1の糸の高さを本数としてしまったのかもしれません。そこで、地歌では、壱越を6本というようになったとも考えられます。もう一つ、義太夫節では、8本(イ(※上に・))以上の高さは、ほとんど用いませんが、女義太夫では、ふつうの義太夫節の1本の3の糸(ニ(※上に・))を2の糸にとることを、「裏1本」にするといいます。その際の1・3の糸は、イ・イ(※上に・)になりますが、こうしたことからも、黄鐘(イ)を1本(義太夫節では8本)というように変わったものとも考えられます。

また、箏の場合も、やはり原則として基準弦となる第1弦をその本数の高さにした調弦全体を、その本数の調子といいます。必ずしも主音弦の高さを定めるということではありません。平調子でも雲井調子でも、その第1弦を何本の高さにするかということが定められるのです。

なお、「調子」ということばにも、いろいろな用いられ方があるということに注意してください。前述の「6本の調子」とか「1本の調子」とかいった場合は、調弦における絶対音高のとり方をいいますので、これから、「高い調子」「低い調子」といえば、いわゆる音域を示すことにもなります。

しかし、「本調子(ほんちょうし)」とか、「平調子(ひらぢょうし)」、「雲井調子(くもいぢょうし)」などといえば、それは、それぞれの楽器の調弦法の種類をいいます。

このような、本来日本の音楽において用いられていた音楽用語を、明治になって洋楽の用語の訳語に不用意にあてはめた結果、場合によっては誤解を招くことばも少なくありませんので、よくよく注意していただきたいと思います。


3. 拍子

日本語、特に日本の音楽用語としての「拍子」ということばにも、さまざまな意味があります。本来は4分の4拍子とか、2分の2拍子とかいったような、拍節内の拍数を表すことばとしては、あまり用いられませんでした。

そもそも、「拍」とか「拍節」とかいったものの概念なり性格なりが異なるのです。日本の音楽では、「拍」といっても、すべて等拍であることが標準であるというわけでもなく、また、「拍節」といった拍の集まりをなんらかの周期で区切った単位も、機械的に均質であるとも限らないのです。

不等拍または無拍の音楽も、非常に多いのです。尺八の本曲などは、そうした音楽の代表的なものです。不等拍または無拍といえるものですから、当然、拍節の上でも、不等拍節もしくは無拍節のものです。こうした性格のことを、非拍節リズムとか、自由リズムとか説明されることもあります。

箏曲や三味線の曲にも、こうした非拍節リズムの部分もあることがあります。特に、歌唱の面では、そうした性格も考えなければなりません。ただ、ふつうの曲では、原則として拍節的なリズムを持っています。

その際、箏曲などで「拍子」という場合には、全体の拍数をいいます。ただし、その「拍」は、いわゆる「拍節」を意味しますから、たとえば、箏の組歌が1歌64拍子という場合は、64の拍節があるということを意味します。したがって、もし4分の2拍子という数え方をすれば、全部で128拍あるということになります。

箏の段物の1段52拍子という表現も、同様に、4分の2拍子で104拍あるということを意味します。つまり、一つの「拍子」の中には、二つの拍があるので、これを、表と裏の二つの「間(ま)」もしくは「小拍子」というように説明されます。

また、《八重衣》の後の方の手事の終わりの部分などを、「百拍子」といいますが、この場合も、同様に、4分の2拍子で200拍あることになります。しかし、この「百拍子」という表現は、かなり比喩的で、実際には108拍子、すなわち216拍ありますし、しかも8分音符が連続しているのを、急テンポで弾くといった迫力ある部分なのです。

とにかく、このように、「拍子」という用語ひとつを取り上げてみても、不用意に洋楽の訳語と結びつけずに、日本音楽そのものの歴史的な概念として、まず考えてみていただきたいのです。


4. 序破急

日本音楽を通じて、音楽の形式原理を示す用語に「序破急」ということばがあります。本来は、雅楽や能などに用いられていた概念なのですが、箏や三味線の音楽にも用いられます。

ただ、雅楽では、「序」が舞人の登場のための楽章で、「急」は退場のための楽章であるなどという説明は、まったくの誤りです。民族音楽学者が書いたものや、その指導を受けた研究者が書いた指導書などにそのような説明があるのは困ります。

本来は、「序」は、「序拍子」、つまり、前述の非拍節リズムのようなものを意味し、「急」は、大まかには急なテンポになることといえます。したがって、必ずしも、序破急の3楽章を完備する必要もなく、序と破または破と急という別な二つの対照を示すもので、前者はリズムの上での対照、後者はテンポの上での対照ともいえます。

これが複合されて「序破急」となったもので、箏や三味線の音楽では、組歌のような。いわば有節形式のものでも、ふつうの曲の、いわば通作形式であるものでも、いずれの場合にも、全体的なテンポの進め方の指導原理として用いられます。

したがって、厳密に、どこからどこまでが「序」、どこからどこまでが「破」というようには、整然と区切れない場合もあります。また、一曲全部が、序破急で進められて行くばかりでなく、ある程度区切られた部分部分に、それぞれ序破急が現れるといった場合もあります。たとえば、その手事の部分が、マクラ(ツナギとも)~手事~チラシと分けられる場合は、この部分だけで序破急になっています。ただし、曲によっては、マクラ・チラシのいずれか、あるいはその両方ともない場合もありますが、その場合でも、手事全体は序破急のテンポで進行するのがふつうです。

なお、「急」といっても、それは終結部分全体のテンポで、一曲の終わりが、すべて急テンポのままで終わるということは、むしろ少なく、急の最後は、原則として、高潮した気分を、しずめて終えるという場合が多いのです。急のあとに、リズムにとらわれないコーダのような部分がつくと解釈できる場合もあります。

このように、「序破急」は、必ずしも音楽形式を示すものだけとはいえませんが、箏曲や三味線の曲には、そうした原理とは別に、一定の音楽形式があります。というより、どちらかというと、形式上の拘束性が強くて、その拘束と制限の中で、自由な表現をしようとする芸術性に富むものともいえます。

組歌や段物などは、その端的な例で、箏の組歌は、1曲が4~6歌構成を標準とし、前述のように、その1歌は64拍子と定められ、また、段物は、1段が52拍子と定められています。ただし、段物各曲の初段だけは、2~3拍多い(《八段》だけが3拍子多い)ようになっています。この余った拍子の部分を、「換頭(かんどう)」というなどといった説明がありますが、これまた明らかな誤りです。「換頭」というのは、組歌や段物の古譜で、裏拍子から記譜した場合、曲頭の実際には存在しない小拍子をいったものです。これを、段物だけの最初の部分と誤解したものと思われますが、これも民族音楽学者の書いたものや、指導書、あるいはレコード解説などに不用意に誤って書かれている場合が多いので、特に注意していただきたいと思います。

そのほか、いわゆる「手事物」にも、その独自の楽曲形式があり、その上、その演奏形式にいろいろなものがあることは、前にも少し述べた通りです。手事は、マクラ~手事~チラシといった形式ばかりとは限らず、その中がいくつかの段に分けられたり、あるいは、手事~中チラシ~本チラシ(後ヂラシとも)といったような形式の場合もあります。

重要なことは、こうした形式に対する拘束からの脱却の工夫が、常に新しい形式を生んできたということです。しかしながら、古典の形式には、それなりの完成された高い芸術性があることも否定できません。

以上のほか、三曲理解のための楽理として心得ておいていただきたいことは、実は無限にあります。演奏形式といえば、その合奏の「多音性(たおんせい)」の問題なども、洋楽の和声の概念とは、まったく異なるものとして考えていただきたいのです。そうしたことを含めて、以上特に注意していただきたいことを述べておきます。

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