「三味線楽」すなわち三味線の音楽には、いろいろな種類があります。
しかし、その三味線という楽器を、日本人向きに改良し、そうして、その芸術的音楽としての楽曲を作った最初の人たちは、それまで「平家琵琶(へいけびわ)」の音楽を扱ってきた人たちでした。すなわち、音楽を職業とする人たちだったのですが、その中でも、柳川(やながわ)応一(?~1680)という音楽家が、まず、芸術音楽としての三味線楽を、組織的な形にまとめるということをしました。実は、「箏曲」の芸術音楽としての作曲を最初に行なった八橋城談も、はじめは、柳川応一といっしょに、三味線を演奏していたのです。
柳川応一は、それまでに作られていた三味線の歌曲を集めて、それらを改作したり、あるいは、みずから作曲も行なって、芸術的な三味線伴奏の歌曲の形式を整えました。それは、歌詞の上では、いくつかの短い別な歌が組み合わされている形式で、ちょうど箏曲の方でも、最初に芸術化されたものが「組歌」であったのと、期せずして似たような結果となりました。こうした曲を、三味線の方では、最も基本的なものという意味で、「本手(ほんて)」といいました。現在では、「箏組歌」に準じて、この「本手」のことを「三味線組歌」ともいっています。この「三味線組歌」には、箏や尺八が合奏されるということはありませんでした。
その後、この組歌形式の「本手」に対して、歌詞の上では一曲を通じて長いまとまりを持った「長歌(ながうた)」と呼ばれる歌曲形式のものも作られ、さらに、その「長歌」に対して、演劇の中で用いられたり、芸術的な演奏の場以外で演奏されたりした曲を、「端歌(はうた)」と呼びました。
こうした三味線の音楽を演奏した人たちは、同時に箏の音楽も扱っていました。つまり、当時の職業的な音楽家は、琵琶も三味線も箏も、そして胡弓まで扱っていたのです。ただ、琵琶は、「平家物語」を語る伴奏として用いられていたので、三味線や箏と合奏させるということはなかったのですが、前記の「長歌」や「端歌」といった曲は、三味線の音楽として作曲されたものではあっても、これに箏を合奏させるということも行なわれ、また、曲によっては、胡弓も加えられたのです。
もっとも、歌舞伎や、人形芝居の方では、演劇や舞踊の伴奏音楽としての別の三味線音楽も発達して行きましたが、一般家庭の人も学んだり演奏したりするもので、音楽だけを楽しむものとしては、こうした「長歌」や「端歌」の曲が、最も普及して行きました。
そのうち、その「長歌」や「端歌」の間奏部が、しだいに器楽性を持つ長いものに発展し、その部分だけを独立させて鑑賞することも可能なような形のものになり、その部分は、三味線だけでも異なるパートの合奏も行なわれるようになりました。こうした部分を、「手事(てごと)」といい、こうした部分を含む曲を「手事もの」というようになりました。
この「手事もの」で、異なる二つのパートがある場合に、主旋律のパートを「本手」といい、もう一つのパートを「替手(かえて)」といいました。「替手」は「本手」に対して、対位旋律であったり、装飾的な旋律であったりします。ただし、このパートが、単に「本手」の旋律を、時間的にずらしたり、同じ類型的な音型を連続的に繰り返すものであったりする場合には、「地(じ)」といいます。
一方、こうした三味線曲に合奏される箏の旋律は、はじめは、三味線とほぼ同じ旋律であるか、あるいは、時間的にずらしたりするだけのものでしたが、しだいにその技巧が発達して、前記の「替手」のパートを箏が受け持ったような形にまでなりました。そして、「箏曲」の説明でも述べたように、最初から、そうした箏のパートがあることを前提として作曲されるようにまでなったのです。こうした曲は、三味線の曲といってよいか、あるいは、箏曲といってよいか、どちらともいえないようなものになったのです。
以上に述べた三味線の音楽は、主に関西で発達してきました。ところが、江戸時代の後期には、江戸で発達していた演劇に付随する三味線音楽が、関西でも流行するようになりました。そこで、もともと関西の土地で発達してきた三味線の音楽の中で、以上に述べた音楽本位の曲を、「地歌(じうた)」と呼ぶようになりました。
「地歌」の「地」とは、関西の土地を意味したものと思われます。そうして、必ずしも歌曲だけではなく、前述したような「手事もの」も含んで「歌」といったのは、関西では、人形芝居の三味線音楽として、「義太夫節」の「浄瑠璃」と呼ばれるものがあり、それは一種の「語りもの」といわれる朗誦(ろうしょう)性に富むもので、しかも対話部分を含むものであったので、それに対して、わざわざ「歌」といったものと思われます。つまり、古くは、「浄瑠璃」に対して、単に「歌」といっていたものが、江戸のものに対して、特に「地歌」というようになったと思われます。
そこで、こんにちでは、「箏曲」と関係の深い三味線音楽の曲を、「地歌」と総称するようになったのですが、場合によっては、単に「箏曲」とだけいっても、「箏曲・地歌」を省略したような意味で、そこには当然「地歌」の三味線音楽も含んでいうことがあります。
ここで、注意しなければならないことは、こうした「地歌」の三味線音楽の歴史は、いろいろな形式の曲が、時代を追って単に新しく創作され続けてきたというだけではなく、同じ曲の演奏の形式も、時代を追って、さまざまに発展してきたということです。
たとえば、《さらし》という曲があります。この曲は、本来「長歌」として作曲された曲です。それが、その手事部分が器楽性を持つものに改作され、のちには「手事もの」として扱われるようになります。ところが、さらに、これに箏が合奏されるようになります。そして、その箏の旋律も、しだいに複雑なものに発展して行って、箏を主にした演奏さえ行なわれるようになります。その上、全体的に、あるいは箏、あるいは三味線の旋律がいっそう複雑なものとなり、即興演奏も加えられるようにまでなっています。
また、《八千代獅子(やちよじし)》という曲があります。この曲は、もともとは尺八の曲であったものを、胡弓の曲に移し、さらにそれを三味線の曲にかえて、「長歌」または「端歌」として扱うようになったのです。それが、さらに「手事物」として扱われるようになり、そして、箏の旋律もつけられて箏曲としても扱われるようになります。《岡康砧(おかやすぎぬた)》という曲などは、もともとは三味線の曲であったともいい、また、はじめから胡弓の曲であったともされます。それが、胡弓の曲として伝えられたものを、箏曲化し、さらに三味線も加え、異なるパートの箏の旋律、すなわち箏の替手も幾つか作られています。
《六段の調べ》にしても、もちろん箏曲として作られたものですが、かなり早くから三味線の曲としても演奏され、そして、まず三味線の替手が作られ、それが箏に移されて、箏曲の原曲と合奏され、いわゆる本手と替手の箏の合奏の形式にも発展して行きます。
とにかく、このように「地歌」と「箏曲」との区別は、ますますつけがたいものになってきたのです。そうして、箏曲のところで述べたように、山田流の演奏家も、もちろんこうした「地歌」三味線曲の箏曲化されたものも演奏しますし、その場合、本来は「地歌」であったという意識が薄れてしまっている場合もあります。
以上のことは、非常に複雑なようですが、本来、このような箏と三味線、そして胡弓を扱ってきた音楽家が、同じグループの職業的音楽家であった以上、こうした現象は当然のことで、箏と三味線とが不即不離の関係にあるのみならず、「箏曲」と「地歌」とは、不可分の関係にあるといえるのです。