「尺八楽」とは、もちろん「尺八」の音楽のことをいいますが、こうしたことばが、古くからあったわけではありません。むしろ、単に「尺八」といっても、それがその音楽のことまで含む場合もありますが、ここでは、楽器としての「尺八」と区別して、「尺八」の音楽を「尺八楽」ということにしておきます。
「尺八」といっても、古くは、現在の尺八とは異なる形態のものがいろいろとありました。
もともと「尺八」ということばは、中国のことばですし、中国で基準とされる高さの音を出すことができる管が、その当時の中国の尺度法の1尺8寸(日本の尺度法とは異なりますから、必ずしも54.54センチとは限りません。43.7センチくらいであったろうと考えられています)であったことから、この名がつけられたといわれています。
したがって、「尺八」という楽器も、中国から渡来した楽器です。それも、かなり早くから渡来したものらしく、奈良の正倉院には、そうした古代の尺八が残されています。この尺八は、指孔(ゆびあな)が、前に五つ、後に一つ、合計六つあけられています。
その後、現在と同じような、前に四つ、後に一つ、合計四つの指孔を持つ尺八が渡来してきました。この渡来は、いつのことかはっきりしません。あるいは、鎌倉時代以後のことかもしれませんが、とにかく、かなり古くから5孔尺八も、日本に伝えられたようです。
その5孔尺八にも、いろいろな長さや形のものがありました。今の尺八と同じような形のものもあれば、全体にまっすぐで、竹の節(ふし)が一つしかないものもありました。この1節でできている尺八を、特に「一節切(ひとよぎり)」といいました。
この一節切の尺八は、特に江戸時代のはじめには、非常に流行しました。箏や三味線と合奏された尺八は、はじめは、この一節切の尺八であったようです。ただし、一節切の尺八にも、いろいろな長さのものがあったのですが、この合奏に用いられたものは、特定の長さのもの(1尺1寸8分)であったようです。《六段の調べ》や《みだれ》のような曲の原曲と思われる曲が、箏・三味線・一節切の合奏で演奏されたことを示す楽譜も残されています。ほかに、一節切独自の独奏曲もいろいろとあったようです。
これに対して、今の尺八と同じ形の尺八もかなり古くからあったようです。それは一節切とは別に存在していたはずなのですが、ただ名称が混同されていたこともあって、その区別がはっきりしません。しかし、一節切を改良して今の尺八になったわけではなく、はじめから一節切とは別に、今の尺八の祖と思われるものが存在していたのです。
この尺八は、かなり古くから、地方地方の民俗的な音楽の楽器としても用いられていたようです。すなわち、現在でも行なわれている民謡の伴奏のような用いられ方は、かなり古い時代にさかのぼることができると思います。しかし、そういえば、三味線や胡弓にしても、かなり古くから地方の民俗音楽としても用いられてきており、民謡の伴奏のみならず、地方独自の語り物音楽や、郷土芸能のお囃子(はやし)の編成楽器にも加えられていたようです。ここでは、そうしたものは、いちおう除外して述べて行くこととしましたので、尺八の場合も、そうした民俗音楽としての用いられ方については、ここではあまり触れないこととします。
さて、今の尺八が音楽に用いられた、その最初は、普化(ふけ)宗の僧侶の法器としてでした。つまり、仏教の儀式や修行の具であったわけなのですが、その場合に、楽器というのは、あるいは当たらないかもしれません。しかし、広く考えれば、こうした音楽性を持った宗教行事の音は、宗教音楽といえると思いますので、まず当初は、尺八は宗教音楽の楽器であり、その音は宗教音楽として存在したといってもよいのではないかと思います。
さて、この宗教音楽としての尺八の芸術化を行なった人として、初代黒沢琴古(1710~1771)の名があげられます。この黒沢琴古が整理集成したものを、現在では「琴古流本曲(きんこりゅうほんきょく)」といっています。当初は33曲に整理されていたようですが、今では36曲を数えています。この本曲が、いわば、芸術音楽としての尺八曲の最古典なのですが、注意していただきたいことは、この初代黒沢琴古も、やはり普化宗に属した人であったということです。つまり、あくまでも、この本曲は宗教音楽としての音楽であったもので、その中で音楽的向上をはかって整理されたものであるということです。それまでの宗教尺八とはまったく別の音楽を創造したというわけではありません。
その後、明治になって、普化宗の制度が変わってから、純粋に音楽としてのみ尺八を扱うようになったのです。そうして、それと同時に、この尺八を、箏や三味線と合奏させることも盛んとなり、いわゆる尺八を加えた三曲合奏が普及するようになったのです。この合奏曲は、それぞれ原曲の作曲事情からすれば、箏曲なり地歌なりであったわけですが、三曲合奏として行なわれる楽曲を、尺八の方からいえば、尺八の「外曲(がいきょく)」ということになります。 ここでも注意しなければならないことは、この尺八を加えた三曲合奏は、明治になってはじめて行なわれだしたのではないということです。それは、江戸時代の中頃から、すでに行なわれてきたことです。それが、明治以後になって、非常に盛んになったということなのです。
もう一つ、尺八の流儀として「都山(とざん)流」ということがいわれますが、尺八の流儀は、琴古流と都山流だけではありません。明治以後にも、宗教的立場を守り続けた人びともあったのです。そうした派の人たちは、京都の明暗寺を中心としているので、「明暗(めいあん)流」などと総称されますが、これは俗称であって、さらにその中でも細分された流派もあるのです。
こうした明暗系の尺八に対して、音楽的立場を主にする流派が、琴古流と都山流、あるいはそれから分かれた流派ということになります。いわゆる三曲合奏を行なうのは、この系統の人たちということになります。
この都山流で、「本曲」と称する曲は、琴古流の本曲とはちがって、その始祖である初代中尾都山(1876~1956)が、新しく創作した曲が大部分です。したがって、都山流尺八の本曲は、箏曲の明治新曲や新日本音楽などとともに、いわゆる創作曲として扱いうるものといえます。
しかし、とにかく以上が、「尺八楽」として扱いうる音楽の概要です。そして、音楽として見た場合、以上に述べた尺八の音楽は、すべて尺八という楽器の特性に基づく音楽でもあり、そして三曲合奏という点では、「三曲」という総合芸術の一要素としての特色を持つものなのです。その上、この他の楽器との合奏という点では、他の箏や三味線についてもいえることですが、今後において、いろいろな他の楽器と組み合わされ、新しい日本の音楽を創造するのに、無限の可能性を持つものであるともいえるのです。